宇都宮の歩み(宇都宮市の歴史)

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ページID1007463  更新日 令和6年3月8日

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 宇都宮の歴史は古く、その昔、蝦夷平定のため、はじめてこの地に足を踏み入れた豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)が開祖といわれており、これを祀った二荒山神社の門前町として栄え、池沼が多いことから「池辺郷」とも呼ばれていました。
 「宇都宮」の地名は、藤原宗円が二荒山神社の社号「宇都宮」を氏とし、鎌倉幕府の中枢にあって、治政をあげたことに由来するといわれています。
 江戸時代には城下町として栄え、参勤交代や日光東照宮の造営などにより往来も多く、「小江戸」と呼ばれるほど繁栄しました。

 明治17年に栃木県庁が置かれ、同22年に町制、同29年に市制が施行されました。以後、県内の政治経済の中心となり、また、14師団が置かれて軍都としても有名となりました。昭和20年の空襲では市街地の大半を焼失しましたが、いち早く戦災復興土地区画整理を進め、全国でもまれにみる復興をとげました。
 昭和29年から30年にかけて、隣接1町10か村を合併編入し、都市基盤の整備を進め、近代的な商業都市としての基礎を整えました。
 昭和35年以降は、宇都宮工業団地(293ha)や内陸では最大規模の清原工業団地(388ha)等の造成をはじめ、積極的に工業振興策を推進し、また昭和59年には、「宇都宮テクノポリス」の地域指定を受け、生産基地から頭脳基地への脱皮、産・学・住が有機的に結ばれたまちづくりを進めてきました。
 また、交通網は、昭和47年に東北自動車道が、昭和57年には東北新幹線が開通するなど急速に整備され、特に、平成3年6月の東北新幹線の東京駅乗り入れにより、宇都宮-東京間は53分と短縮され、東京圏との交通は一層便利になりました。更に、平成23年には北関東自動車道が全面開通し、南北・東西の動脈の結節点として、ますます人やものの交流が盛んになっています。

 平成元年4月には、作新学院大学、帝京大学理工学部、宇都宮文星短期大学が同時に開学し、これまでの商・工業都市に加え、文教都市として大きな役割を担うことになりました。一方では、昭和57年にニュージーランドのマヌカウ市(現オークランド市)との姉妹都市提携を始め、中国のチチハル市、フランスのオルレアン市、アメリカのタルサ市、イタリアのピエトラサンタ市と、それぞれ姉妹都市、友好都市の絆を結び、国際理解と平和に向け市民レベルの交流を活発に繰り広げています。

 この間、平成5年に全国高等学校総合体育大会、平成7年に第10回国民文化祭とちぎ95、平成8年に日本女性会議96が開催されたほか、平成12年に全国都市緑化フェア、平成19年にはもったいない全国大会の会場地となるなど、全国規模のイベントも数多く行われています。
 平成8年、宇都宮市が市制を敷いてから100周年を迎え、同年、中核市に、平成19年には、上河内町及び河内町と合併し、50万都市となりました。
 本市は、恵まれた立地条件や交通条件、各種都市機能の集積などにより、栃木県の政治・経済・文化の中心地であると同時に、これからも、首都圏の北の拠点都市として発展を続けていきます。
 

江戸時代の宇都宮城下の模型(清明館展示)

江戸時代の宇都宮城下の模型(清明館展示)

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