大谷石

Xでポスト
フェイスブックでシェア
ラインでシェア

ページID1006777  更新日 令和6年3月8日

印刷 大きな文字で印刷

あらまし

 大谷石は、本市の中心市街地から西北8キロメートルの地点にある大谷町(旧城山村荒針)を中心産地として、東西約4キロメートル南北に約6キロメートルにわたって分布しており、大谷町で産出するところから通称大谷石といわれている。
 国内でも各地にいろいろな凝灰岩が採掘利用されているが、いずれも極めて小規模なものであり、古くから大規模に採掘が続けられてきたところは当地だけで、世界的にもあまり例がないようである。一部では露天掘りも行われているが、大部分は地下採掘で地下数10メートルから深いところでは100メートル以上もある坑底での坑内掘りである。
 その埋蔵量は約6億トンと推定されており、昭和40年代の最盛期には、採掘事業場は約120ヶ所、年間出荷量も約89万トンまで増加したが、その後は年々減少し、平成21年度の採掘事業場は12ヶ所、年間出荷量は約2万トンまで減少している。

沿革

 大谷石が使用された歴史上最も古い例としては、今から約1,500年前頃に県内の壬生町車塚古墳、小山市間々田千駄塚付近百塚で凝灰岩(大谷石)の石棺が発掘されている。

  • 天平13年( 795年) 国分寺建立の際の土台に使用
  • 康平6年(1063年) 宇都宮氏の祖、宗円が宇都宮城建築の際使用
  • 永和元年(1375年) 市内興禅寺境内に大谷石で五輪塔を建立
  • 元和6年(1620年) 宇都宮城主本多上野介正純が城郭普請に使用のため領内田野村より大谷石を採取
  • 亨保6年(1721年) 当時江戸の隅田川沿に大谷石問屋が16軒存在
    (運搬には、現在の石井町の鬼怒川利用説と、姿川利用説がある。)
  • 弘化3年(1785年) 宇都宮二荒山神社の石垣修築に大量使用
  • 明治に入り、東京を始めとして関東一円にその販路を広めた。

 そして、大正11年旧帝国ホテルがアメリカの建築技師ライト氏の設計により大谷石の使用により建築され、同12年9月の関東大震災においてその耐火耐震性の優秀さが認められ、一躍声価を高めた。
 その後、旧帝国ホテルは取壊されたが、現在愛知県犬山市にある博物館明治村に一部復元され保存されている。

用途

 耐火耐震防湿に富み、軽量(比重1.65)で加工が容易で、雅趣があることから次のような用途がある。

  • 建築用材:倉庫、工場、防火壁、事務所、住宅、店舗
  • 付帯設備:石塀、門柱、壁材、玄関ポーチ、マントルピース
  • 土木用材:宅地造成、団地の石垣、土留、護岸、区画割、側溝
  • 装飾用材:大谷石を加工した焼成材等を装飾壁材として(例 バーンストーン、武城焼、ヨーザン石等)

新製品の開発等

 大谷石の成分として天然ゼオライトを含有し、その特性として吸着性、粘着性、固結性があり、その用途として水処理、公害物質処理、油処理、脱臭処理剤としての利用が可能であると言われている。
 また、昭和29年県農業試験場において複合肥料として新用途が開発され、その後一部が実用化され、化成肥料、土壌改良剤として酸性度の矯正等の目的に現在も利用されている。
 さらに、原石をいったん砕いて骨材と固め、強度・外観の改善をしたり、ブロック状にした製品も開発されている。
 このように多目的な利用価値のある大谷石を広くPRするため、大谷石材協同組合、大谷石美術工芸生産者組合、大谷石材加工組合で組織する大谷石産業振興推進協議会では、平成2年度に関東一円にキャラバン隊の派遣を行い、平成3年度には幕張メッセで開かれた世界的な石の祭典「ジャパンストーンフェア91」に出品するなど、販路拡張のための各種事業を展開している。
 また、平成4年度には大谷石の新製品づくりの研究部会を設置し、さらに平成5~6年度にかけては、大谷石の素材としての可能性を追求した意匠とその商品化を試みるなど様々な事業に取り組んできた。最近では、ガーデニング用材や斬新な石の表情を活かしたインテリアアクセサリーとしての用途も見出されている。